2018年7月26日木曜日

佐川美術館「生誕110年 田中一村展」


今年、最も興奮した美術展だった。
きっかけは先日訪れた多治見の美術館でもらったチラシ、
南国の森の岩陰に止まるアカショウビンの絵が可愛くて、
暑気払いに良かろうと、玄関ドアに貼っていた。

毎日見てると情が湧いてくるものの、
琵琶湖のほとりの美術館はちょっと遠いなと、考えあぐねてたら、
妻の方も同様に気になってたとのこと。
それならば、と新名神をかっ飛ばした。


7歳の頃の小品から、奄美時代の大作まで、
一村の画業人生を一望して苦悩と変遷が伝わる展示構成。

当時の画壇とは決別し、高評価は死後のものと解説されてたが、
その理由もなんとなく分かる気がする。
自賛の筆は右肩上がりのクセ字。
花や鳥などを細部のディテールまで細密に描き込むわけでもない、
画壇で図鑑のような正確さが求められたならば嫌われるだろう。

しかし、デフォルメされたモチーフを落とし込む勘所は抜群。
なにより構図が決まってる。
狭くて小さい掛幅絵や色紙絵が多かったが、
若き日からとことん巧かった墨の濃淡の使い分けが、
その狭い構図に奥行きを生み出す。
中でもその巧さが発揮されたのが、逆光を描いた風景画だと思う。
シルエットばかりなのに果てしない広がりを感じる。


若き日に習得した南画と琳派の技法は、必要に応じて、
引き出しから取り出して作品へと活かされるが、
奄美の移住資金作りとして描いた襖絵は、
あきらかに光琳の紅白梅図をリスペクトしただろう紅梅図と白梅図、
渾身の墨筆が冴える松図など、縁起物を脇に従え、
輪廻のさまを花になぞらえた四季花譜図が中心に描かれており、
これまでに培った琳派と南画の技法の極致のような大作だった。


奄美に移住してからの作品は画題の新鮮さや、
日本画としてのモチーフの奇抜さも目を惹くが、
構図・濃淡・逆光が冴えまくり、日本画の枠なんて逸脱した
グラフィックアートな世界まで手が届いてた。

南国の眩しい日差しの下、きつめのコントラストで映る風景を
ポスターカラーと言わんばかりの調色で塗り込む。
見た目に鮮やかな作品も多いが、逆光を画題に据えると一転、
版画のごとく極端に強調された白と黒の世界、
そこに一点だけ色が添えられて一気に華やぐ。

代表作「アダンの海辺」は、金泥の曇空と遠くに霞む水平線、
雲母を混ぜたのかキラキラと静かに輝く砂礫の浜、
そして奇妙な実をつけるアダンの木が穏やかな色調で塗られ、
絹本ならではの下地を成すキャンバスに収まっている。
なるほどあれは別格だった。
しかしこれを外しても、奄美時代の作品はどれも心奪われる。


もうひとつ欠かせないポイントは端。
青少年の頃から、絵の端に何か描かずにはいられない性格だったのだろう。
とにかくどの時代でも端っこに見逃せない何かがいる。
遊び心か、もったいない精神なのかは分からないが、
小さく端に描かれる何かが、画題の巨大さや畏敬を引き立ててもいた。


今回の美術展は図録がなく、代わりにNHK出版などの画集が置かれてたが、
たった今、肉眼で見た作品の勘所が、画集の印刷だと見えてこない。
一村の全貌がより分かる収録点数と解説ではあったが、
生の迫力と魅力は収まってなかったので、残念ながら次の機会に。
グッズももう少し食指が伸びるものがあれば良いのに。

しかし、なかば冗談のつもりで貼ってたチラシから
こんなに多くの刺激を得ることになるとは。
今までほぼ知らなかった自分の勉強不足を恥じる思いだが、
また好きな画家が増えた。

20180727 追記:
ひとつ思い出した疑問がある。
青少年時代の展示で飾られていた、千葉市美術館所蔵の椿図屏風。
あの左隻には、何が描かれてたのだろう。虚無?是空?


時間がなくて、常設展の樂吉左衞門や平山郁夫まで
見れなかったのはちょっと残念。
帰り道に寄ったラコリーナ近江八幡の
クラブハリエ焼きたてバームクーヘンも顔が溶ける美味しさだった。
滋賀県油断ならないな。


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